台風
以前、須磨海岸のすぐ側で仕事をした。裏塀の向こうが砂浜だった。日中にはよく漁師が出入りした。台風が接近していた。陽に焼けた漁師が風を見る。荒れはしないと笑った。予報と少し違う。彼は僕の背中をバンッと叩き明日には晴れるさと。海の家に消えて行った。
夜勤だった僕は気象情報に気を配る。岡山を抜ける予測。実際は九州から韓国へ抜けて行った。多少の雨風はあったが朝には晴れていた。夜勤明けの帰り道。サムアップの漁師。煙草を吸いながら聞いた。風が違ったと。ふーん…としか言えなかった。あれから転勤する度に風を見た。ビルでも山でも海でも。風は風でしかなかった。僕には何も教えてくれなかった。
僕は櫓に居た。遠き灼熱の大地。砂と岩と灌木の視界。風は気紛れに吹く。強くはなかった。幾日も変化はなかった。
退屈だよね。彼奴ら今日も動かないさ。さ、トランプでもやらねーか?
相方がニヤリと笑う。僕も変わらない視界に飽きていた。座ろうとする瞬間。ゾクッとした。一瞬の風に汗が噴出す。僕は地平線を見詰めた。
早くやろうぜ。
つられた相方の体温が上がった。地平線に連なる砂煙。相方は隊長に報告。僕を櫓に残しガレージに走った。双眼鏡を構える。動くミニチュア。砂煙を巻き上げゆったりと近付く。危機感はまるでない。緩んだ光景。風は過度の緊張に優しく流れた。根拠無き大丈夫。僕は隊長に報告した。
大きく揺れた櫓。偉丈夫の仁王立ち。地平線を睨む。大きく息を吐きその根拠を問うた。
風…風が優しい侭。
僕の肩を掴みジッと見つめる。全軍の命預かる身。僕が信頼できるのか判断つきかねた。鳴り響く警報。続く仏蘭西語。隊長から笑みが溢れた。肩を掴む手に体温が戻る。ゆったりとした鯨の群れは援軍だった。管制は解かれた。
再び揺れた櫓。阿形、吽形の揃い踏み。僕は鉄柵にしがみつく。2人の会話。風が隠す。表情からは悪くない気配が漂った。吽形は僕の頭をバンバン叩く。満面の笑みで。
漁師は風を見た。僕には風の声が聞こえた気がした。あの日来た台風の置き土産。
雨
大嫌い。昔は楽しかった。意味もなくずぶ濡れになった。通学を共にする友人達と。楽しかった、否定はしない。成長と共に楽しみは無くなった。
不意に降り出した夕立。僕は近くのガード下に飛び込んだ。闖入者に動きが止まった。雨音に途切れるラジカセ。手には蛍光。彼は再び踊り始めた。初めて生で見たオタ芸。しなやかで力強く魅了された。脚元に置いた鞄にジャケットを畳んだ。決まったフィニッシュに拍手。はにかむ顔は曇天に映えた。ラジカセを手に走り去る。彼は雨上がりの星空の下に消えた。
僕はガード下を通る様になった。多くは横目に通り過ぎた。気付けば大技のループで歓迎してくれた。少し早く帰路についた僕はドリンクを手にガードへ向かった。アップに余念のない彼が笑った。ドリンクのパス。空振りの旋風脚。右手に掴まれたドリンクを飲み干した。
蛍光ピンクのリターンパス。僕は洪家拳に構えた。ラジカセのリズムに合わせた演武。グリーンに光りが呼応した。目紛しく巡る。まるでフラクタル。時計回りのグリーン。反時計回りのピンク。大の字に伸びた旋風脚。フィニッシュがガードに響いた。息の乱れぬ彼が羨ましかった。
おじさんの何?ヤバいよね?
昔に習った洪家拳だ
俺にも教えてよ?回転系増やしたいんだ!
輝く真っ直ぐな眼差し。僕はジャケットを脱いで再び演武した。手にはピンク。脚首にグリーンを纏い。彼は見様見真似。20分もすれば様になる。恐ろしいガキだ。帰る頃には一通り出来ていた。もちろん形だけだったが。それ以降一緒に踊る事は無かった。会えば話しオタ芸を見学した。
残暑厳しい9月。僕は学祭に招待された。ステージは既に始まっていた。演劇、バンド、漫才。観客に父兄以外の女子が増える。夕暮れ時。広いステージに彼が上がった。ガード下は狭過ぎた。戸惑う彼。ソロは厳しいか…黒尽くめの覆面がステージに舞い上がった。
中央でのフェイスオフ。跳び下がり抱拳礼。歓声も音楽も消えた。即興のオタ芸。2人のバトル。複雑なステップ。閃光の拳。見せ技を出来るだけ。頷いた彼。フィニッシュか。バク転からの連続旋風脚。しなやかに滑らかに円弧を描く。彼と交差した3回転。終わりだよ。
左右入れ替わる抱拳礼。夕立を歓声が搔き消した。
花火
僕は塾の帰りだった。いい香り漂う社会人に囲まれ、ドアから流れる夜景を眺めていた。遠くに1センチ位の赤い花火が上がった。あっ。漏れた声。周りも気づいた。遠く走る車内からも容易に分かった。美しく華やかな刹那。知らぬ間に涙ぐんでいた。
坊主、綺麗だったな。
不意に声を掛けられた。いい香り強いおじさんだった。
あんな一瞬だけどよ、作るのにどれだけの手間がかかるか…どれだけの危険があって…想像と創造力が必要で…
おじさんはボロッボロッに泣き出した。唇を噛み締め青白い顔で端に上がる花火を見つめた。僕が降りた停車駅。ホームから連弾の花火。僕は堪え切れなかった。溢れる涙を止められる程のオトナじゃなかった。遠き空に想いが疾る。あの日から僕には花火が特別な存在に。
僕は大学生になっていた。一丁前に彼女作った。そんな彼女が浴衣を着た花火の夜。僕は夜空を見上げ涙流した。彼女は訝しみそっと間隔を空けた。そのまま放置した。そんな苦い記憶もまた花火だった。落ち込み引きずらなかったのは幸いだった。
僕は社会人になった。夏祭りは独りで楽しむことにした。祭りの喧騒を眺め、花火は独りそっと見上げた。何回目かの夏だった。ある日職場の女の子から昼食に誘われた。
○日、花火観てませんでした?
ああ、観てたよ。君も?
家族で毎年行ってます。先輩泣いてませんでしたー?
クスリと笑う。馬鹿にした感じは全く無かった。僕は塾帰りの話をした。彼女は黙って頷き聞いていた。笑顔でパスタを頬張りながら。話した後は何故か心が軽かった。
父が花火観て泣いてる男は2人目だって。見たら先輩じゃないですかー。父に話したら連れて来いって…如何です?
僕は快諾した。彼女の家族と花火を観ながら対面した。花火に照らされた顔。忘れもしないあのおじさん。2人で並び花火を見詰めた。汗が伝う頬を拭う事なく。
久しぶりだなぁ。顔見てあっ!ってなった。毎夏、思い出してな。あの時間帯の電車に乗っては探したぞ、小僧…
それから毎夏彼女の父が花火友達。今年はこれから。孫を抱いてくるという。少し楽しみが減った。新たな楽しみと引き換えに。
お座りなさい
睥睨するシルバーヘア。眼鏡越し睨む眼光は野獣。手にはいつもの竹定規。2メートル近くあった。どんだけ長いねん!反則やろ!BBA!顔色変えず定規を消す。定規乱舞。complete combo。紅い筋が剥き出しの腕、腿、脛に。最後は眉間か喉仏。
お座りなさい
なんでこんな部屋借りたのか。答えの無い自問の繰り返し。上の空。
聞いてらして?
ニヤリと笑った。再びの定規乱舞。ビッシビシと執拗な叱責。僕は為す術無く降参の白旗。助けを求めるも旦那さんは笑顔の地蔵。ぶらぶら定職に就かない僕に非は存在。反論の余地無き正論ラッシュ。定規の痛みはいつか消える。正論は心を撃ち、斬り、塵と砕いた。
ある日のこと。相変わらずぶらぶらする僕は大家に呼ばれた。いつもの迫力は無い。笑顔なき柔和。薄気味悪い。いつもの縁側でなく座布団に通された。
お聞きなさい
残照と西風の中、いつもの説教が始まった。穏やかな口調。正論祭り。何故か心に響く。恐る恐る見上げた顔。見た事も無い笑顔だった。優しく諭し、叱る。漸く説教が終わった。頭を下げ俯く侭。上げられなかった。唇を噛み締め歯をくいしばる程、涙は溢れ止まるを知らなかった。
数日後、大家に呼ばれた。大きめの箱を渡された。開けろと促す。濃紺のスーツ。過不足ない採寸。いつの間に?笑顔地蔵が口を開けた。
どうかな?似合うと思うよ。ピッタリだ。
仕立て屋の御主人。採寸は全て目測だった。恐るべし地蔵。感謝より先に畏敬の念。困った事は雪駄しか持ってなかった事。年中裸足年中雪駄。奥様が奥から呼んだ。返事と共に伺う。靴下を渡された。玄関へと向かう。ブラウンの革靴。何とも言えぬ履き心地。キツくも緩くも無かった。
翌日からは必死だった。未だ嘗てない程に職を求めた。知り合いからは気でも触れたかと笑われた。僕は形振り構わず頭を下げ職を求めた。断られ塩を撒かれもした。それでも必死に探した。今までの自分を変えられるのは今、今しかなかった。
そう簡単に職はなかった。人知れず公園や境内で泣いた。生きる。なんと大変な事か。そんな僕を見兼ねた人が居た。なんの取り柄も無くスキルも無い僕に仕事をくれた。
夕暮れの空を眺めながら最後の書類にサインした。ガランとした部屋を出た。車に乗り込む暑さに鮮やかに蘇った記憶。
祭り
夕方から出かけた。歳の離れた従姉妹と手を繋ぎ。まだ可愛らしい時代だった。お兄ちゃん、お兄ちゃん、と呼ぶ度に笑顔。僕はせがまれる侭に食べ遊んだ。陽が沈み踊りが始まる。遊び疲れた彼女をお姫様抱っこ。心地よく眠っていた。蚊帳の中そっと寝かせた。まだ暑い宵の口。久しぶりに彼女と祭り。浴衣に結い上げた髪にドキッとした。未だ大人になり切らぬ、その表情に魅せられた。
今年も祭りが始まる。今年もまた久しぶり。今年は幼子を引いて帰ってくると。あの日の彼女を思い出す。あのままで良かった。僕は浴衣の袂から煙草を取り出した。あの日と変わらない光景。住職と並び眺めた。こらぁ!不意に取り上げられた。
振り返って目が合った。あの日の少女の面影を残した、従姉妹が満面の笑みだった。